こくほ随想

健康の考え方の変遷

前回は、1946年につくられた世界保健機関の健康の定義を紹介した。実は、医学や医療の世界で、健康というものが定義されたのは初めてのことなのである。それまでは、病気が定義されていただけなのである。

病気の定義は、比較的単純である。胸のレントゲンに特別の病変があれば、それは病気である。血圧や血糖も、高いにせよ低いにせよ一定の基準を超えると、病気ということになる。世界保健機関の定義がつくられる以前には、いろいろな検査をして病気のないことが健康と考えられていた。すなわち、健康はきわめて消極的な概念に過ぎなかったのである。

したがって、世界保健機関の定義は、病気のないことを健康と考えていた世界中の人々に、大きなインパクトを与えたのである。しかし、この定義には多くの問題が内在していたことも疑いない。

第1の問題は、人間を健康な人と不健康な人の二群にしか分けることが出来ないことである。健康と不健康は、美と醜、善と悪のように対立する概念となっている。しかも、「肉体的にも、精神的にも、社会的にも満たされた状態」を健康というのであるから、あまり健康な人はいなくなってしまう。

それはすなわち、どの程度健康かという程度の見極めが出来ないことでもある。パーフェクトである以外は、すべて不健康となってしまうからである。

第2の問題は、Aさんが健康と判定した人が、Bさんによって不健康とされてしまうことが、容易に起こりうることである。すなわち、健康の普遍性が存在しなくなってしまい、芸術鑑賞と同じように、健康の判定は主観に任ねられてしまうことになる。

これでは、時代や地域により、健康状態がどのように異なるのか特定をすることが出来ない。また、ある施策が健康の向上にどのように貢献したか否かを評価することも出来ないのである。

第二次世界大戦以降、世界保健機関は健康の問題を人文学の分野から科学の分野にもってくるために、大きな努力を払ってきたといえる。リハビリテーション学において機能障害に段階をつけたのもその1つの表われである(国際障害分類/1980年)。いわゆる病気としての臓器障害→機能障害→社会的不利へと進展していく機能障害の各ステージの特徴に合わせて講ずべき手立てが異なってくることを明らかにしている。この国際障害分類は、その後生活機能や環境因子等を加味した改訂版が2001年に採択され、さらに科学的な発展を見せている。

1984年、世界保健機関の専門委員会は、高齢者の健康を生活機能の自立の如何にすることを提言した。それまで健康は生死、病気の有無によって判定されるのが常であった。しかし、少なくとも先進国では平均寿命が延びて皆、長生きになり、余命の長さのみを基準にしても仕方ない。また長生きすれば病気の1つや2つあっても当然である。

1946年の定義にしたがうと、健康な高齢者は皆無になってしまう。一病息災でも多病息災でもよいではないかということになったのである。筆者の先輩にも、糖尿病性の腎疾患で人工透析を受けながら、医師として第一線で活躍している男性がいる。

この男性は、腎臓が機能していないので昔の定義では病人ということになる。しかし、生活機能は社会貢献が出来る程自立しているわけだから、今日の定義では健康人ということになる。

かつて地域の高齢者の調査をしていたとき訪問させていただいた、87歳の男性のことを時折思い出す。その方には排泄も介助を受ける身体障害があった。しかし、時折、会社経営のアドバイスを受けに、後輩が訪ねてきていた。この方は考えようによっては健康人といえるのかもしれない。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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