こくほ随想

ヘルスプロモーション
-健康は目的でなく手段-

 人類の歴史上、今日ほど健康が人々の関心を集めたことはないであろう。人類が平均寿命50歳の壁を突破したのは、つい100年ほど前のことである。それも、人類全体ではなく、文明の発達した欧米先進国に限られていた。その頃のわが国の平均寿命は30歳代の後半に低迷していた。

平均寿命50歳の壁を20世紀の初めに突破した国々はいわゆる先進国であり、発展途上の国々より、感染症を早く克服したために長寿を獲得していったのである。栄養学的には、パンとミルクのみの食生活を脱却し、肉を食べられるようになった国々から長寿になっていったわけである。オーストラリア、ニュージーランド、欧米諸国がこれにあてはまる。

米食民族は、わが国のみでなく、欧米諸国に長寿という点では遅れをとった。それは米の栄養価が小麦より劣っているためではなく、肉の導入が遅れたためである。

ともあれ、人類が感染症と闘っている間は健康などというものを論じている暇はなかった。1946年、世界保健機関が世界中の健康に関する憲章をつくった。その前文にあの有名な健康の定義(※後述)が掲げられた。この頃、わが国は欧米諸国に半世紀遅れて平均寿命50歳の壁を突破したのである。

それ以降、健康の問題は、専門家のみでなく一般の人々の大きな関心事となった。健康をどのように考えるか、どのように測定するか、どのように達成するかと日々かまびすしく語られている。

筆者は、老年学を専門としている。高齢になっても働き続ける理由などを調査することもある。やはり、理由のトップは経済的問題である。しかし、2番目に健康のためという理由が多い。

有償労働のみでなく、社会参加や社会貢献も健康のためを答える高齢者がきわめて多い。

食生活や体育のみでなく社会活動や趣味もすべて健康のためということになる。健康が人生の目的となっている。ブラックユーモア的にいうと「健康のためなら死んでもよい」という風にさえなる。

このような風潮に対する批判も見聞されるようになってきた。わが国では「健康お宅」という邪揄的表現がある。英語でも似たようなニュアンスのヘルシズムということばが使われている。

ヘルスプロモーションを唱った1986年のオタワ憲章はつとに有名である。実はこの憲章は次のように述べている「健康は日々の暮らしのための一資源である。生きる目的そのものではない」。このように、オタワ憲章は、健康はあくまでも人生の手段であって目的ではないことを明言しているのである。今日の倒錯を予見して警告しているかのようである。

筆者たちの研究では、有償労働であれ、ボランティア活動であれ、社会貢献をしている高齢者はより健康になることが示されている。長生きにもなり、寝たきりや認知症にもなり難くなる。

しかし、80歳を過ぎても益々アクティブな方々をよく調べてみると、健康のために仕事や芸術をやっている方はおられなかった。必死になって何かに打ち込んでいて結果として長寿になっているのである。したがって多少余命を縮めても仕事を続けることになる。93歳まで現役の指揮者を続けた朝比奈隆さんもその典型である。

健康を目的として手段として行う諸活動は自己変革をともなわないので、本当の健康をもたらさないという逆説を知るべきである。


文献:柴田 博 『中高年健康常識を疑う』(講談社メチエ選書)


※「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。」 (日本WHO協会訳)


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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