こくほ随想

「施設症とエデンの園」

おむつ外しに取り組む介護施設を取材していて、面白い言葉に出合った。

「施設症」。入居しているお年寄りは何もできない存在なので、すべての面倒を見てあげなければならないと、介護職員が思い込んでしまう症状なのだそうだ。

 

その施設では、他の多くの施設と同様、おむつ交換は、これまで定時に行っていた。しかし、お年寄り一人一人に合った「個別ケア」の実践の過程で、一人一人の排泄パターンをチェック。それに合わせて個別にトイレ誘導し、できるだけおむつを使わない介護を始めようとしているところだった。

 

当然、現場の職員からはさまざまな戸惑いや不安が噴き出す。

「それでなくても忙しいのに、百人近いお年寄りを一人一人、別々の時間帯にトイレ誘導していたら体がもたない」「転倒や骨折が多くなる。また、その間、ほかのお年寄りに目が行き届かなくなるので、昼はともかく、夜勤帯は絶対無理だ」など―。

 

職員の気持ちもわからないではない。新しいことを始める際には、だれしも不安を感じるものだし、いざ事故が起きたら、責任も背負わねばならない。まじめな職員ほど、「あれもしなくては、これもしてあげなければ」と思い、それこそ煮詰まってしまうだろう。

 

しかし、果たして本当にそうなのだろうか。目の前にいるお年寄りは、ただ世話の焼けるだけの存在、時には、徘徊したり大声をあげたりして、それ以上に手のかかる存在なだけなのだろうか。

 

「施設症」という言葉から、かつて、アメリカで、施設改善の取り組みを取材したことを思い出した。「エデンの園活動」という。ニューヨーク在住のビル・トーマス医師が提唱したもので、介護施設を「冷たく、管理的な集団生活の場」から、「温かく、人間らしい暮らしの場」へ、中に住むお年寄りを「ただ世話の焼ける、かわいそうな存在」から、「残された能力を使って、自分も何かの世話をすることができる、自発的で自立的な存在」へと変えていこうと、施設職員の意識変革を促す活動だった。

 

具体的には、施設に小鳥や犬、または植物などを持ち込んで、お年寄りに世話をしてもらう。下の世話まで人にしてもらって、自分はもう生きていても仕方のない存在だと落ち込み、あきらめがちだったお年寄りが、自分も何か世話をする存在を持つことで、何かの役に立っていることを実感し、生きがいを取り戻す。

 

その際、重要なのが、職員の意識改革だ。お年寄りは、一人前の大人として扱われることで尊厳を取り戻し、自分の意思や要望を何らかのサインで伝え、時には職員を助けてくれることもある。職員側も、これまで「年をとった人」と、ひとくくりに接していたお年寄りの個性に気づき、一人一人に合った、人間らしい介護を行うようになる。

 

話を日本に戻せば、痴ほうのお年寄りは尿意や便意を伝えられないと思い込んでいる介護職員が多いと聞く。しかし、体をもぞもぞしたり、目をきょろきょろさせたり、何らかのサインを自発的に送っている場合も多いという。職員に心を開けば、お年寄りがサインを発する機会はより多くなるだろう。しかし、それを受け止める職員の心がなければ、どうしようもない。お年寄りは悩み、怒り、あきらめ、ついにはサインそのものも発しなくなってしまうだろう。

 

施設症やエデンの園活動から感じるのは、「自分だったらこんな扱いをしてほしくない」「自分だったらこうしてほしい」という、当たり前の感覚を持ち続けることの大切さだ。職業研鑽の過程の中で、そうした意識が失われてしまうとしたら、悲しい。ごく当たり前の意識とプロとしての視点を兼ね備えた人たちに、日本の超高齢社会を支えていってもらいたいと思う。

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