こくほ随想

第3回 
医療保険制度改正、徒然(つれづれ)

「3K」は、現在は、労働環境・作業内容がきつい・汚い・危険という意味で使われている。半世紀前は、国鉄とコメ(米価)と健康保険を指し、政府の三大赤字事業という意味で使われていた。国鉄は国鉄民営化で片付き、コメは自主流通によって解消された。健康保険は制度改正を重ねてきた。

人口の高齢化が進み医療需要が増え、高度経済成長が終焉し負担力が増えない中で、過度な医療需要を抑えつつ、公平でバランスの取れた保険料負担をお願いする、そういう方向で制度改正が進められた。

その第一弾は、昭和57年に制定された老人保健法である。昭和48年に始まった老人医療費無料化は、老人の有病率と受診率の差を解消し、老人の深刻な医療需要に対応するものであった。しかし、「病院の老人サロン化」のような行き過ぎの弊害も生じるなど、大局的な観点からの制度創設であった。

第二弾は、昭和59年の医療保険制度の大改正である。健保本人1割負担の導入(定額負担から定率負担へ)、退職者医療制度の創設(国保への負担偏重の是正)を柱とする改正であった。吉村仁保険局長の強いリーダーシップの下、与党内に賛否両論が渦巻く中で、渡部恒三厚生大臣とともに改正を実現した。

私も、小さな改正だが、医療保険制度の改正を担当した。保険局企画課長に着任する直前の平成5年6月、関係審議会で医療保険制度改正の中間報告がまとめられ、「入院患者に食費負担導入」と大きく報じられた。

その頃、政治の世界は激動していた。自民党から複数のグループが離党し、日本新党という政党も生まれた。内閣不信任案が可決され、解散総選挙となり、野党各党は「入院患者の飯代負担反対」を公約の第一に掲げた。自民党は過半数割れし、5党8会派が連立して、細川護熙内閣が誕生した。厚生大臣には大内啓伍民主党委員長が就任した。

私は、時には与野党が入れ替わることは良いことだと思っている。しかしこの時は、医療保険制度の改正には逆風となった。新与党議員に説明に行っても、「選挙公約の第一に『入院患者の飯代負担反対』を言ってきた。この改正は絶対ダメ」と厳しく追い返された。

改正の考え方を、医療保険制度でカバーすべきはきちんとやり、かつ、給付と負担の公平性を実現するとし、整理し直した。すなわち、①入院患者が付添婦を雇うという保険外負担を解消し、財源を確保し看護師を増員する、②在宅患者も入院患者も同じような水準の医療を受けられるよう特に在宅医療を充実する、③負担の公平性の観点から入院患者にも在宅患者と同程度の食費負担をしてもらい、その財源を看護師増員に充てる。与党議員に何度も説明に行き、理解してもらい、何とか法案を国会に提出した。ところが細川総理の佐川急便問題が起こり、国会は空転を続け、法案審議ができない。細川内閣総辞職、羽田内閣誕生の間隙を縫って、夜中の国会で法案審議をお願いして、予算成立と同時に法案成立を実現した。この改正の財源で新看護体系がつくられた。国会最終日に、自社さが組んで村山総理が選出された国会である。

次の大きな改正は2002年の健保改正である。小泉内閣の下で、厚生省入省同期の大塚義治保険局長をヘッドに、健康保険も国民健康保険と同様に本人3割負担と改正した。高齢者以外は医療費自己負担率が統一され、制度間格差が解消された。なお、医療費が高額な場合には、高額療養費制度によって負担は軽減される。医療保険制度の抜本改革論議に一区切りつけた節目の改正であるが、誠に残念なことに、大塚君は昨年1月に亡くなられた。心からご冥福を祈ります。

この3つの医療保険制度の改正については、医療科学研究所の機関誌「医療と社会」に当時の担当者の座談会が掲載されている。HPから閲覧可能なので、ぜひ大塚君の生の声を聞いて欲しい。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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