こくほ随想

第1回 
「こくほ随想」執筆に当たって(自己紹介)

今年度の「こくほ随想」を担当します。本稿の執筆依頼文書に「国保関係者にとって有益な情報を執筆」と書かれていますが、私は直接国保の担当として携わった経験がありません。有益な情報ではなく気分転換の一コマとなりますが、ご容赦をお願いします。

厚生労働事務次官の退官が2009年7月と相当前なので、まず自己紹介します。

学生時代は大学紛争の最中で、高度経済成長が続き、各地で公害問題が起こっていました。私は公害を無くすという決意で、公害部という部局のある厚生省に1970年に入省。「若気の至り」的な動機ですが、振り返ると、良い選択をしたと思っています(環境庁は翌1971年に創設)。

入省2年目に、本邦初の産業廃棄物の規制を担当しました。大きな人事異動(多くの人が環境庁に出向)があったため、厚生省に残った産業廃棄物規制の政省令を担当する事務官は私だけ。初めての産業廃棄物の規制だったので事業所管省庁の抵抗は猛烈でした。全身全霊を注ぎ込んで頑張りました。各省庁の先輩年次の人たちと交渉し、このプロセスで霞が関の文化を知り、頑張れば良い成果につながるなど、国家公務員の矜持という面でも良い経験をしました。係長のときに環境庁大気規制課に出向し、工場からの煤煙規制(最終の硫黄酸化物(SO2)規制、最初の窒素酸化物(NOx)規制)を実現。入省の動機はそれなりに実を結び、充実感もありました。

初めての課長は内閣参事官(総理官邸勤務)。中曽根総理、後藤田官房長官、竹下総理の下で、3年間務めました。国鉄民営化、売上税→消費税の導入など、歴史に残る政治課題が動き、貴重な経験を積みました。

厚生省の年金局資金運用課長に戻り、政治の世界から資金運用の世界へと転換。その後、年金課長、薬務局経済課長、保険局企画課長、大臣官房政策課長を歴任し、それぞれのポストで制度改正を担当しました。

大臣官房審議官のときに事務次官等の不祥事があって、私は急遽高齢者介護対策本部事務局長に任命され、介護保険法案の国会審議を担当。1年余りの国会審議を経て1997年12月に法案が成立し、異例の1月人事で二度目の総理官邸勤務となりました。首席内閣参事官として、橋本内閣、小渕内閣、森内閣の下で多様な役割を務めました。2001年に中央省庁が再編され、新設の内閣府の大臣官房長に人事異動し、小泉総理大臣の下で機能強化された内閣府の総括的業務を担当。官房長を3年半、事務次官を2年務めて、身を削るような激務から解放されました。

翌年(2007年)4月から、縁あって民間のシンクタンクに勤務しました。ところが、8月に柳沢厚生労働大臣・塩崎官房長官から何度も強く要請されて、8月末に厚生労働事務次官に就任しました。民間人から二度目の事務次官へカムバックです。消えた年金記録問題、C型肝炎訴訟、派遣切り・年越し日比谷村、2009年のブタ由来の新型インフルエンザ(パンデミック)、社会保険庁の廃止・日本年金機構の設立、村木局長の誤認逮捕、山口元事務次官夫妻の殺害事件等々、本来業務に加えて次々と大きな課題・事件がありました。舛添大臣と一緒に省を挙げて全力を注ぎました。山火事状態が沈静化してきたところで退官しました。

2009年8月の衆議院議員総選挙で民主党が大勝し、民主党内閣の強い要請を受けて、人事院総裁に就任しました。東日本大震災への対応、人事院勧告を巡る内閣との対応など、激動の時期でした。2012年4月に任期満了で退任。その4月に、医療科学研究所の森亘理事長(元東大総長、元日本医学会会長)が亡くなられ、何かとご縁があって、その跡を引き継ぐことになりました。

次回からは、現下の課題等について、現役時代の係わりなどにも触れながら、書いていこうと思っています。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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