こくほ随想

保険者による保健事業の伝統

第1次世界大戦を経て、わが国が世界に飛躍する時代となり、1922年、労働者を対象とした健康保険法が制定された。この健康保険制度では、「保険者ハ被保険者ノ健康ヲ保持スルタメ必要ナ施設ヲ為スコトヲ得」と規定された。ここでいわれた施設を基盤にした活動は保健施設活動と呼ばれ、保健に関する宣伝、保健思想の啓発、傷病の予防に関する活動、健康診断に関する活動、保養に関する活動などを行うことが推奨された。これによって、わが国の医療保険制度は、「疾病」保険制度ではなく「健康」保険制度としての歴史を刻んできた。この保険者による保健施設活動の歩みが、わが国の地域保健事業の実績を築き、老人保健法による市町村の保健事業への地平を開いた。そのような歩みの中で、輝かしい成果をあげ、全国の活動のモデルとなったのが、岩手県沢内村、長野県八千穂村、秋田県井川村(ともに当時)での取り組みである。

岩手県沢内村では、1957年5月に、深沢晟が助役から村長になった。深沢は村政を担当するに当たって、「住民が何を考え、何に苦しみ、何に悩み、何を願っているか」を聴いてまわった。その結果、「豪雪」「貧困」「多病」が村の「三悪」であることを知り、行政の重点をこの三悪とのたたかいに置いた。深沢村長はまず保健委員会を設置した。委員会は、乳児死亡半減と保健活動の村民への浸透を目的とし、村の保健活動の推進母体となった。1957年から乳児健診、1961年から妊産婦健診が始められ、1962年には乳児死亡ゼロの記録を達成した。こうして住民の健康を守るために医療機関と保険者が文字どおり一体となった健康管理活動が意欲的にすすめられ、その活動は、全国の市町村の保健事業のかけがえのないモデルとなった。

長野県八千穂村の国保直営診療所には佐久病院の出張診療の支援が終戦前後から続いていた。その中に院長の若月俊一医師の週1回の外来があった。佐久病院では、病院の発足当初から実施してきた無医地区の巡回診療について、定期的かつ組織的に地区の全住民の健康管理を継続する必要があると考え、「健康台帳と健康手帳を備えた全村健康管理」というアイデアが生まれた。このアイデアをすすめるための組織として住民代表、農協代表、村議会代表、開業医、佐久病院代表からなる保健委員会がつくられ、健康管理の方針や予算を協議することになった。検診は、1959年から毎年11月から3月にかけての農閑期に各地区に出張して行われた。検診結果に基づく保健指導は、急性疾患の治療のみならず、慢性疾患の管理にも大きな成果をあげた。こうして八千穂村で行われてきた事業は、沢内村とともに、その後に日本各地ですすめられてきた地域保健活動のパイオニアとして先駆的役割を果たした。

1963年、秋田県井川村において、大阪府立成人病センターグループによって、脳卒中の予防対策が開始された。村では保健衛生推進協議会(会長は村長)を組織し、検診受診率の向上のために、結核予防婦人会や栄養改善推進協議会、各集落の保健衛生推進員が一体となって活動する体制が固められた。そして致命的な発作や重大な後遺症を残すことの多い脳出血発生率は人口千人当たり2.00人から0.93人へ、顕著な減少がみられた。この成果は、予防対策の長期継続により、脳出血、脳梗塞ともに予防可能であることを示しており、地域における予防対策の優れた効果を示すものであった。井川村における循環器疾患対策の歩みは、地域における循環器疾患対策の推進に対し、そのかけがえのない実績によって、一貫して先導的な役割を果たした。

まさにわが国の保険者による保健事業は100年に近い伝統を有するのである。保険制度のもとに実施された事業であるからこそ、自由で闊達な、地域の実態、現状に即した事業が推進され、かけがえのない実績が刻まれたことは、特記すべき教訓であると思う。


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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