こくほ随想

イギリスの社会保障

16世紀、イギリスではヘンリー8世(在位1509-1547)が、絶対王政の確立を目指す時代を迎えていた。1517年、マルティン・ルターが「95か条の論題」を提起して、宗教改革ののろしがあがった。ヘンリー8世は、自分の離婚問題を契機として、ローマ・カトリックとの対立を深め、1534年には首長令によってローマからの独立を宣言した。

ローマ・カトリックが中世のヨーロッパを支配してきた、その基盤になっていた最大のものは、全ヨーロッパに張り巡らされた修道院の体制である。修道院は各地域にあって、宗教活動にとどまらず教育、福祉、労働などのあらゆる面で人々の生活を支えていた。ヘンリー8世がローマから独立しようとする場合、修道院の解体は、最も重要、かつ不可欠の作業であった。そして1536年に244か所の小修道院、1539年に184か所の大修道院が解体され、イギリス全土から修道院が姿を消した。結果として修道院に代わって、人々の福祉を担う体制が必要となってきた。そこで進められたのが救貧法(Poor Law)体制の構築であり、その成果を集大成して、1601年にエリザベス救貧法が制定された。

救貧法では、各教区(parish)を単位として、各教区に救貧税(poor rate)を徴収する権限が与えられ、教区の貧しい人の世話は、教区が自ら対処することとされた。各教区に自ら税金を集めるというような権限を認めることは、絶対王政の推進という点から考えれば、本来、認められるはずのないものである。しかしイギリスには、裁判制度におけるコモン・ロー(Common Law)の存在が示すように、地方の自律性が尊重されてきたという伝統がある。そして、新しい福祉の体制が、宗教に少しでも依拠するところがあれば、またたく間に再びローマ・カトリックが忍び寄ってくる可能性があった。

こうして生まれた救貧法体制は、第1に地方の自律性を認めていること、第2に宗教から最大限遠いところに位置づけられた、というところに最も大きい特徴があった。イギリスの人たちは、宗教の「慈恵(charity)」の理念から独立して、人々が互いに支えあうという「共済(mutualism)」という理念のもとに、自らの福祉を担う、自律的な主体としての「地方」を手にしたのである。そして、このとき生まれた「地方」が担う救貧の制度が、今日に継承される人類に普遍的な社会保障制度の原型となったのである。

20世紀初頭まで300年間を通じて、イギリスでは、人びとが生活する「地方」が人々の生活を支える基盤となる伝統が、育ってきた。

イギリスの病院には、救貧法体制を担った救貧院に育った病舎を源流とする自治体病院と、民間の慈善団体によって開設された篤志病院という、2つの系譜をもつ病院が存在した。1946年の国民保健サービス法によって、これらの病院がともに国有化され、その体制を基盤に、全国に一律な保健サービスが実施されることになった。そのため、イギリスの社会保障は国の強い力によって支えられている、まさに国営の制度である、とわが国では理解されているように思われる。しかし、イギリスの社会保障の原形は、地域の人々が自ら救貧税を払い、運営するという形として生まれたのであり、国王が国民の面倒をみるために生まれたものではない。

社会保障の本質は、決して国が国民のために何ができるかということではなく、国民が自分のことは自分でやるという体制をどれだけ達成できているかということにあることを、イギリスの社会保障の歴史は教えている。現代の社会保障理論の父とされる、ベヴァリジ卿の次の言葉を紹介して、本稿を終えることにする。「自由な国家における社会保険の任務は、各人の責任を社会保険が肩代わりすることではなく、むしろ、各人が責任を果たせるようにすることだと思う。」(W.ベヴァリジ著伊部英男訳『強制と納得』至誠堂1975年)


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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