こくほ随想

大家族主義は錯覚

日本の医療のなかで、いま、最も重要な問題は「老人医療」であることに反対の人はまずいないだろう。誰もが、緊急かつ最重要の問題という認識を持っているが、実際には、老人の医療を中心とした施策はパッとしない。国民の要望のなかで、最も多いのは、老人をめぐる問題についてである。

人口の高齢化率(人口のなかで65歳以上の老人の占める率)は現在約20%である。2030年には約30%、2055年には約40%になると推計されている。ここで注目すべきなのは、高齢者がふえることによって高齢化率がふえるというのはこれから20年のことで、これからの20年が大変な時期なのである。しかし、現実には老人をめぐる問題は何一つ解決していないといっても過言ではない。

国民の医療への不安の最も大きいものは、高齢者がどのようにしていけば十分に生きていけるかのノウ・ハウがほとんど示されていないことだ。健康保険が皆保険になった昭和36年(1961年)以来、「医師にかかる」ということが身近なものになり、「医師にかかれば何とかなる」という意識を誰でもが持つようになった。ところが、老人はいくつもの病気を持っているが、案外、いわゆる急性疾患は少ない。慢性疾患と呼ばれる病気が多く、これらの病気を抱えた人は、実際問題として入院のできる場所がない。前世紀の終わり頃までは、療養型病床群といわれるものがあって、老人たちの“最後のトリデ”だったが、これは無駄だという見解で半減させることが決定され、いよいよ老人たちは行き場に困っている。

一方、老人医療費は非常に高くつく。最も病気にならない年代の人の医療費と後期高齢者(75歳以上)の医療費を比べると、総額にして高齢者は数倍の医療費がかかる。これでは、とても持ち切れないということで、2年前に後期高齢者の医療対策がまとめられ実施すべくスタートした。この案は厚労省が10年の歳月をかけて練り上げたもので、専門家筋の評価は高かったが「後期高齢者」というネーミングが悪いということでストップし、政権をとった民主党は、改革案を指示できず、いまだにそのまま(ストップしただけの状態)になっている。これをストップした案よりもすぐれたものにするためには、恐らく、健康保険を一元化するというような荒療治をしない限り、批判に耐える案は出てこないだろう。

このように見てくると老人問題は八方ふさがりである。基本的な問題として、老人自身が住む場所にも困っている。先年あった群馬県の“老人ホーム”「たまゆら」の全焼事件で露呈されたように、生活保護を受けている人でさえ、ちゃんと入居できる場所がないのは、老人への理解が社会に不足しているのだというだけですむのだろうか。いま、国民の多くは高齢になった老人に多い、認知症や寝たきりの人々にどうやって医療や介護を受けさせるかに困り果てているのである。

私見をいわせてもらうと、私は日本の老人問題の対策は基本的なところに「ボタンの掛けちがい」のようなものが厳然として存在しているように思う。それは、日本の社会保障の出発点は国民皆保険と国民皆年金を実現した1961年だが、そのとき、政府は日本の社会を大家族主義で終身雇用制の国だと規定していることだ。終身雇用制は別の問題だが、大家族主義と規定したのは大きなあやまりで、それをずっと半世紀以上も修正していないことに根本的な問題が内包されていると思う。

在宅介護は本来、大家族主義であるか、キメの細かい訪問介護(夜間3~4回見回る等)でない限りできない。健康保険や年金が家族単位になっているのも不合理である。政府は早くこれに気付いて修正すべきなのを、改革を嫌う役人が、そのまま放置して今日に及んでいる。社会情勢にマッチしていないわけである。だから日本の老人対策はすっきりしない。「着物を着て靴をはいて歩いている」感じなのである。大家族はいまやどこにもいない。

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

 

 

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