こくほ随想

人も国も食の上に立つ(佐伯 矩:さいき ただす)
- 栄養学の黎明期に学ぶもの -

健康づくり人材、健康科学の専門家として栄養士・管理栄養士の職能が年々、重要性を増しているのは今さら言うまでもありません。が、以上の専門職胚胎の歴史や背景について広く知られているとは言えないので、かいつまんで紹介したいと思います。

日本の栄養士誕生の嚆矢(こうし)は大正3年、佐伯 矩博士が国民の栄養改善のために東京白金に私立栄養研究所(世界初の栄養研究機関)を開設したことに始まります。博士は医学から栄養学を独立、体系づけた国際的な栄養学の父として著名ですが、同9年に研究所は内務省付属機関として国立栄養研究所に衣替え(初代所長/佐伯 矩)。栄養学研究とともに新聞などを通して栄養学普及を図ります。

しかし、博士はマスメディアによる教育活動だけでは脚気や結核など食生活に関連深い病気が多発する社会での栄養改善は困難であるとして、大正13年に栄養の実践的指導者養成を目的とする栄養学校を設立。同15年、第一回卒業生15名を「栄養手」として世に送ります。言うまでもなく、現在の栄養士の先駆ですが、米国の栄養士誕生が同6年ですから、わずか9年後に栄養専門家を誕生させたことは特筆に値するでしょう。

ちなみに博士は私立研究所時代に新陳代謝、ビタミン(国際単位の提唱者)、偏食などの研究を発表しています。また後年には本邦初の「日本食品成分総覧(昭和6年)」、「新撰日本食品成分総覧(同9年)」、「調理食品成分照覧(同11年)」を著し、食品の消費と生産、栄養学の根拠となります。一方で、従来の営養を「栄養」に改定したほか「栄養食」「栄養効率」「栄養指導」などを造語。後世に多大な貢献をしていますが、特に注目したいのは「経済と栄養」を重視し、安価で入手容易な食品を組合せ、栄養豊富で美味な献立を普及させる活動に熱心だったことです。

栄養三輪説

右は『人も国も食の上に立つ』とする社会観に立脚するものであり、後に「栄養三輪説(栄養は健康の泉源、経済の根本、道徳の基礎)」として有名になる博士の根本哲学に由来するものです。と、同時に栄養欠乏からの罹病が少なくなかった世相に対し、栄養経済学的視座に立つものと再評価すべきでしょう。

ともあれ、博士は大正8年「国家機関において栄養問題を推進するのは急務」とする建議を帝国議会に提出。翌9年に国立栄養研究所創設は既述の通りですが、残念ながら今とは比較にならぬほど栄養学の重要性は共有されていません。そのため博士は早くから国立栄養士養成校を考えますが、予算制約で実現が進みません。大正11年「経済栄養献立法」に続いて同13年「単位式献立法」を確立、以上を普及させるために私財を投じて私立栄養学校を設立した背景があります。

ここで注目すべきは、当時の設立趣意書に記載された想定対象者です。博士の呼びかけた相手とは「◎栄養問題に関係を有する官公吏(厚生・農林・文部・通産・運輸・大蔵等の諸省、地方庁、保健所等)◎栄養改善施設(共同炊事・栄養食並びに献立材料配給所等)の主任《中略》◎学校、幼稚園、託児所、会社、工場、寄宿舎、船車等の給食担当者並びに労務関係者)◎医師・薬剤師・教師・保母・保健婦・看護婦・助産婦《中略》◎食糧生産業(消費関係者以上に栄養の知識を要する)◎家庭の主婦」(09年、(株)日本栄養士会「社団法人設立50周年記念誌」より引用)。

まさに「人も国も食の上に立つ」とする博士らしい布陣ですが、中でも食糧生産業や中央省庁、労務関係者などを掲げ、90年近く前に食育基本法や地域保健、職域連携などの考えを先取りしていることに驚きます。(続く)


記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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