こくほ随想

社会保障と国家・社会・市民

社会保障は、「人間の叡智」と「人々のつながり」によって、貧困や病気や孤立などによる「不幸」を遠ざけようとする「社会」の営み。

ここで留意すべきことが三つある。一つは、失恋や別離などの「不幸」には、「社会保障」では対応出来ないこと。二つは「不幸」感は人によって異なり、健康でお金持ちでも「不幸」だと思う人もいること。そして第三に、客観的に「不幸」な状態にある人でも、「身から出た錆」に対しては、社会保障の対象とすることに、社会は一般的に消極的であること。

こう考えると、「社会保障」とは「社会が出来ること」であって「社会が為そうと思うこと」に限定されると考えるべきであろう。

「社会保障は国家の責任だ」という論者の中には、「国家」に対して、あたかも「神の恩寵」を期待するかのような主張があることを私は不思議に思い続けてきた。自分でさえやろうとしない(したくない)ことを、「社会保障」に求めることには無理があろう。特に民主主義国家においては。

ところで国家論は、歴史的にも思想的にも多種多様である。それが故に個人はそれぞれ国家にいろいろなことを「期待」し、国家のいろいろな干渉を「排除」してきた。「国家」という言葉がおどろおどろしいとすれば、「社会」という言葉に置き換えていただいてもいい。我が国では、国家と社会の違いが曖昧であるから。

話が脇道にそれるが、社会保障制度の中核を為すといわれる「年金制度」について考えてみよう。(かつては)イギリスや北欧では、生活保護を発展させた「国家年金」(老齢年金など)であり、大陸のドイツやフランスでは、サラリーマン労使団体が創設した「社会年金」(退職年金など)であった。我が国の年金制度は「大陸型」に生まれ、国民年金が創設された時に「北欧型」が加味されたものであるが、年金制度の識者にもこのことが余り理解されていない。我が国において「国家」と「社会」の違いが曖昧な証左であろう。

私は「社会保障」の社会は、文字通り「社会」と考えた方が現実的で良いように思う。負担をするのは「個人」から構成された「社会」であり、給付を受けるのは「社会」の構成員である「個人」であると考える方が、我が国の「社会保障」論として自然であろう。

脇道の議論をもう一つ。年金制度の源流の違いは、「国家」と「宗教(キリスト教会)」の関係に淵源があるように思う。社会保障は「国家と教会(社会・市民)」のいずれに属すべきものなのか。両者を対立するものと考えた「カソリック」の大陸世界では「社会(教会)」に属するもの、両者を協働するものと考えた「国教会」のイギリス・北欧世界では「国家=社会(教会)」に属するもの、そして国教会から離脱した「プロテスタント」のアメリカ世界では「市民(教会)」に属するものと認識されてきたのではなかろうか。

現在、我が国では、社会保障の財源論が政治的な課題とされ、「国民の選択」であると政党や識者は言う。果たしてそうか。我が国における社会保障論の混乱は、実は「国家保障論」と「社会保障論」が混在していることに原因があるのではなかろうか。さらに言えば、教会などの中間団体が認識されて来なかったが故に、「国家」と「社会」と「市民」という三つの言葉が、曖昧に用いられてきたことに問題があったのではなかろうか。

我が国の社会保障の再構築は、財源を税に求めるか保険料に求めるかという前に、国家型で構築するか、社会型で構築するか、市民(個人)型で構築するかを議論の基盤に据えるべきであると思う。そして私は「社会・市民協働型」で社会保障論を再構築することが現実的であると思っている。

その場合において「社会」と「市民(個人)」をどのように繋ぎ合わせていくかということこそ、私たちが今、論議すべき「社会保障論」であると考える。そしてこれこそが「国民の選択」なのではないだろうか。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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