こくほ随想

普遍と個別

社会保障の給付に「現金給付」と「サービス給付」があることを前回、述べさせていただいた。今回は、この問題と深く関わる「普遍と個別」について論じることにしよう。

社会保障の「社会」という言葉は、社会連帯を基盤とし、社会的な視点に立ち、社会の力で「個人の身体、生命」を支えることに由来する。一方、成熟した社会においては、社会に弊害をもたらさない限り、個人の生き方は「自由」であり、人の生活は自立的に営まれることが望まれよう。ここに社会保障の矛盾と葛藤がある。

「社会から考える」場合、「自由」な生き方の実現こそが「社会」目標となる。一方、「個人から考える」と運・不運や身体的・精神的なハンディの発生は避けがたく、その場合、何らかの思想や哲学から、社会的支援が必要となり、社会保障制度が生み出される。「自由と福祉」(連載第1回)で述べたように、「社会」を構成する個々人の犠牲(負担)において、困難に直面した「個人」の支援を行うわけである。

「福祉国家」とは、この「個人に対する支援」に「権利」という名前を付けたわけであるが、私は「権利・義務」という法律関係で理解するよりも─これも間違いではないが─、「社会と個人」という社会関係で理解する方が動態的かつ理性的であるように思う。社会保障論、特に「サービス給付」における「社会と個人」の関係について、今一度思索を深める必要があるのではなかろうか。

結論を急ごう。

「社会」が「このような個人は支援するべきだ」と考えた場合、社会的な支援が組み立てられ、「個人」が「このような社会的な支援は受けたくない」という場合には、そのサービスを拒絶できることが社会保障における「サービス給付」の原則であろう。

前者は「普遍」という考え方を、後者は「個別」という考え方を背景とする。マクロとミクロという言葉に置き換えることも可能かもしれない。そして、この二つの折り合いは、必ずしも良くない。むしろ「折り合いが悪い」というべきであろう。そうであるとすると、「普遍と個別」をどのように調和させれば良いのであろうか。

「サービス給付」に携わるヒューマンサービスの担い手たちは、しばしば「制度が悪い」という言葉を使う。それは「現実に必要とされるサービス」を出すことを「認めていない」制度に対する苛立ちであろう。その気持ちも分からないわけではない。

しかし「制度の眼」から見れば、そのサービスの提供は禁止されているわけではなく、単に「社会的な支援」の対象とされていないに過ぎない。「提供者負担あるいは利用者負担で、サービスの提供を行えば良いではないか」ということであろう。「サービスの提供」という「個別」の判断と「社会的な支援費の提供」という「普遍」の判断は、実は別のこと、別の判断なのである。─勿論、その良きサービスを新たに「社会的な支援」の対象とすることは、動態的な「社会と個人」の関係の中で論じられるべきであるが─

これが「サービス給付」における「社会と個人」の関係であろう。

このように考えてくると、結局、社会や制度という「普遍」は、主に「社会的な支援の費用」に関わるものであり、個々人が必要とする「個別」は、主に「サービスの提供の是非」に関するものであることが理解されよう。そして「個別」は、人と人とが向かい合う実践の場において、提供者が専門的に、利用者が納得するものを提供し、この実践の蓄積の上に「普遍」が形成されていくべきものではなかろうか。財源論は「普遍的に」、サービス提供論は「個別的に」という折り合いの付け方こそが、普遍と個別を繋ぐ掛け橋なのであり、ここにこそ、社会保障における「サービス給付の再発見」の意義があると思っている。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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