こくほ随想

パーティーと仲間

社会保障制度(特に社会保険制度)は「パーティー」(社交のための飲み、語らい)のようなものである。こう言うと「不真面目だ」と怒る方がおられるかもしれないが。

人間は多彩であり多様である。そのような人々が10人、何らかの名目で「パーティー」を開いたとしよう。男性も女性も、高齢者も社会人も子どもも、健常者も障害者も参加したとしよう。お金持ちも貧しい人もいる。そして自由に食べて飲んだとすれば、たくさん食べた人も殆ど食べなかった人も、高いお酒を飲んだ人も下戸で水しか飲まなかった人もいよう。さて、楽しかったパーティーも終わり、支払いをして店を出ることになる。

そこで店から5万円の請求をされたとき、どのように費用を分担するだろうか。

考える第一は「パーティーの趣旨」であろう。「Kさんの誕生会」であったり「Jさんを慰労する会」であれば、KさんやJさんの負担を安くする必要があろう。第二は「食べたり飲んだりした量」を勘案するだろう(応益負担、受益者負担)。高いものをたくさん頼んだ人は、やはり多くの費用を払うべきではあるまいか。第三に「懐具合」も大切な勘案材料であろう(応能負担)。「無理のない」負担にしないと、折角の楽しかったパーティーの後味が悪くなってしまう。さらにハンディーを持っている人の負担を少なくしようとするのも「人情」であろう。

いずれにしても、「パーティーの参加者」が間違いなく行うべきことは、5万円を円満に集め、きちんと支払いをして店を出るようにすることである。

そうであるとすれば、そもそもパーティーを開催するために最も大切なことは、この費用(5万円)を円満に集められる人達で行うことであり、結局、何らかの意味で「仲間」で行うことであろう。勿論、「仲間」といっても、極めて親しい仲間から多少の知り合いまで多様である。その親しさの程度によって、負担の方法がきめ細かくなったり、単純な割り勘になったりすることは、皆さんも数多く経験されたことであろう。

社会保険の一つ一つの「保険制度」はこのようなことから生まれた。「その参加者だけで費用の負担をする」ことを前提に仲間を募ったわけである。同じ会社に勤める仲間、同じ町に住む仲間、同じ仕事をしている仲間でパーティーを始めることにしたわけである。

しかしながら、「多くの食べ物を必要とするグループ」や「懐の寂しい人々のグループ」でもパーティーが成立するようにするためには、そしてそれが人々の安心や豊かさを支えるため、社会が必要であると考えたとすれば、そのパーティーに参加していない人からも、支援金やカンパを貰うことが必要になってくる。「同じ国民なのだから」や「明日は我が身なのだから」ということであろう。社会保険制度における「税金」や「支援金」は、このような意味での「二次的な資金」ということであろう。

「何でパーティーに参加しなかった私が、その費用の一部を払わなければならないのか」という人に説明することは、「広い意味での仲間」という考え方が成立していなければ、なかなかに困難であろう。「社会連帯」という言葉は美しいが、それを実現させるためには「広い意味での仲間」ということを世の中が納得しているか否か、それを作り上げる意志をその社会(例えば国民や県民)が有しているか否かにかかっている。

社会保障制度(特に社会保険制度)は、このような素朴な形から形成されてきたように思う。私達は、どのような人達を「パーティーの仲間」と考えているのか、どのような人を「同じ社会の-広い意味での-仲間」と考えているのか。そしてこの二つの間にある壁はどのくらい厚いのか高いのか。社会保障をここから、即ち「原点から」考えるべき時なのかもしれない。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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