こくほ随想

「持続可能」という言葉

長寿医療制度(後期高齢者医療制度)について「誤解に基づく批判や揚足取りの批判」と「そもそも論」に基づく問題提起が乱れ飛び交っている。

前者は、この改革が「後期高齢者」に対する「財政連帯論」であることを意識的か無意識的か、認識していないことに由来する。後者の「そもそも論」は、財政論としての「社会保険の本質論」「保険集団の創設」そして「保険集団外からの支援の在り方」からの問題提起である。

ところで「社会保障制度」は、負担と給付の両面から構成されることから、総合的かつ集団的なものにならざるを得ない。また「負担」とは一定の『自由』の侵害であり、「給付」とは一定の『福祉』の提供であることから、制度改革には必然的に「負担と給付の両面における利害・損得」が発生し、だからこそ「民主主義に基づく意思決定」によって利害を調整することが必要となる。その意味では、社会保障「制度」の正当性は、「民主主義に基づく意思決定」すなわち「法律の制定・改正」によってのみ担保されるわけである。

さて先の「そもそも論」であるが、これはさらに「老人保健制度において、既に内在していたもの」と「今回の改革によって新たに生まれたもの」の二つに分けられ、後者の典型が「保険集団の創設」の問題である。今回の議論のポイントは「後期高齢者という(広い意味での)保険集団の創設」に尽きる。

過去に成立した保険集団-例えば国民健康保険集団-を「分ける」ことは、保険集団の中に全く異なった属性の集団が、新たに発生した場合にのみ認められるべきことであり、「厳格な保険集団論」に立てば、その場合には「分けるべき」であろう。

他方、かつての高度経済成長の結果として、サラリーマン保険と自営業者(地域)保険の二本立て制度に歪みが生じ、少し幅広い「財政連帯論」を導入することが必要となり、年金の「基礎年金制度」や医療保険の「老人保健制度」が生み出されてきた。いわば「保険集団を超えた広い意味での協同」である。

このように考えると、今回の「後期高齢者保険集団」というものは、長寿化に伴う「属性の異なった集団」の発生という「分ける」要素と、「保険集団を超えた広い意味での協同」という一見、矛盾した要素を合わせ持つところに特色がある。このことは「厳格な保険集団」論者においても、「広い意味での社会連帯」論者においても、今回の改革に「評価と批判」の両方が生まれることを意味する。すなわち前者の立場に立てば、「分ける」べき要素からの「評価」と「厳格な保険集団としては成立し得ない=国庫や他の保険者からの多額の支援を前提としている」という「批判」が生まれ、後者の立場に立てば、「後期高齢者に対して社会連帯が推進される」という「評価」と「分けることはノーマライゼーションに反する」という「批判」が発生するのは当然であろう。

しかしながら、「国民の中における考え方の違い」や「利害・損得」がある中で、民主主義的な決断によって改革がなされたものである以上、しかも社会保障というものが国民生活に密接に関係するものであることを踏まえれば、何よりも、その「制度」を安定的なものとして扱うことが必要であろう。すなわち「持続可能な社会保障」という言葉は、勿論「財政の持続可能」も大切であるが、国会において民主主義的な決定が明確になされた場合には、想定外の大きな社会変動が新たに発生したのでない限り、過去の決定を尊重するという謙虚さこそが「持続可能な社会保障」に携わる者たちの倫理なのではなかろうか。

今回の制度改革に対しては、私個人の思いも勿論あるがそれはともかく、制度の朝令暮改が、「社会保障に対する国民の信頼」すなわち「持続可能な社会保障」の基盤を揺るがしかねないことを、先の二つの立場に拘らず、お互いが肝に命ずるべきであると思っている。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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