こくほ随想

自由と福祉

誰でも「豊かな人生」を生きていきたいと願う。それでは「豊かな人生」とはどのような人生なのであろうか。こう書き始めると「いわゆる人生論は別のところでしてくれ」という読者がおられるかもしれない。ましてや「哲学者」でも「宗教家」でもない私に「人生論」を語る資格などあろうはずがない。どうしてこのような書き出しになったのか。

社会保障は総体として、何らかの「幸せ」「豊かな人生」と関係する。勿論、「豊かな人生」はそれぞれの人が創り上げていくものである以上、その一部をどのように担うことができるかということであろう。それではどのような「一部」が担えるのだろうか。

一言で言えば「社会連帯と人類の英知で『不幸』を少なくする」ということであろう。勿論、「不幸な出来事」であっても、他者や社会が「少なくする」ことができないものも当然ある。「恋愛」や「友情」など「人と人との関係」に由来するものが、その典型であろう。その意味では、他者や社会が、一定程度、肩代わりできたり、解決できたりする「不幸」に限定されるというべきであろう。そしてこのような「不幸」を少なくすることで、明日に希望が見い出せるようになるかもしれない。「不幸」に負けて、打ちひしがれている人間が、他者や社会の「心配りと手助け」によって明日に勇気を持てるかもしれない、ということであろう。あるいは、「不幸」になるかもしれないという恐れで萎縮することなく、明日、力強く社会の中に出ていけるようにするということであろう。

こう考えると、そもそもそんな「心配りと手助け」などいらない、という人間の存在が思い浮かぶ。「余計なおせっかいなどやめてくれ」という人もいよう。「私は私で自分の人生を切り開いていく」という覚悟を持った見事な人も世の中には少なくない。私もこのような見事な生き方をしてみたいとも思う。

ここで突然、「憲法」を持ち出すことをお許しいただきたい。「憲法論」をするつもりはない。ただ憲法では「人類の英知」として「自由」と「福祉」が並立しているということを申し上げたいのである。「自由権」と「社会権」と言われているものである。そしてこの二つは「原理を異にしている」。原理を異にするという以上に実は「対立」している。

例えば『国民健康保険制度』は、保険料(税)を負担する人、医療サービスを提供する人、医療サービスを安く受益する人、の三者で構成される。そして仮に「医療サービスを提供する人」について「負担=仕事」と「給料=報酬」が見合っているとすれば(これ自体が議論の対象となりうるが、取りあえずこう仮定しておこう)、保険料(税)を負担する人とその恩恵を受ける人が存在することとなる。そして「お金」の世界に限定していえば、その時、負担する人は「自由」を侵害され、医療サービスを受益する人は「福祉」を受けることとなる。この二者の利害は、この時、この場に限って言えば「対立」しているわけである。

勿論、この「対立」を止揚するため、「権利」という「法律学」の言葉、「投資」「貯蓄」という「経済学」の言葉、「社会連帯」という「社会学」の言葉、「民主主義に基づく合意」という「政治学」の言葉、「明日は我が身」「情けは人の為ならず」という「倫理」が語られるわけである-社会保障の必要を信じてきたものとして、私もこれらの論理には多かれ、少なかれ賛同する-が、これらは「対立」を超える為の論理であって、「対立」そのものの存在を否定するものではない。

社会保障は、何らかの論理によって「自由」を超える(制約する)ことから始めざるを得ないことを自覚するべきであると思う。これは社会保障に「国家」という装置を用いるか否か、「社会福祉」という理念を構築するか否か、ということ以前の「人と社会」に根差した問題なのである。「社会保障の論議」が数多く交錯している現在、私はここから社会保障の「現在的な議論」を始めたいと思う。

 

記事提供 社会保険出版社〈20字×80行〉

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